「死んだの」 [ママ]
可愛い親友がいなくなって、どのくらい経ったかわからなくなりました。
いちいち数えても何も変わらないからです。
コスモがいなくなってから、今も立ち直れません。
日中の話し相手がいないことに圧倒されました。
「こっちゃーん、洗濯干すよー」と呼ぶと、2階へやってきて息子の部屋を詮索し、ごみを咥えて小躍りしながら見せに来たり、「こっちゃん寝るよー」というとベッドのそばへ来てしばし頭を撫でられると踵を返し、床に寝ます。自宅内ではいつも話をしていました。
耳掃除も片方が終わると「はい、反対コロンして」というと大きな体でゴローと反対側の耳を見せてくれるようになっていました。でっかい「お手」も無表情でやってくれました。めんどくさいときは「遠隔お手」とかもやってくれました。
逃げ出したくて外に出ようとすると、すべてがコスモの思い出だらけで足がすくみました。
「ここでまずマーキングをしたなぁ」とか、そんなことが次から次へと押し寄せ、とてもじゃないけれど外出が苦しく、やっと突破したのは半月ぐらいした頃だったか、その道を駆け抜けてバスに乗り込んで外出した時でした。
思えば、ここに引っ越してきて犬は数ヶ月で我が家の一員となりました。
この地域のどこに何があるか、どの家にどんな花が咲いているか、公園はいくつあるか、抜け道のこと。すべてコスモに教わったようなものです。
そして、コスモのいない今、そこへ行く用事が全くありません。
行ってもたぶんいい歳の女が奇妙に泣いているのを目撃されるだけです。
しかし、最近になってやっと「うちの犬、死んだの」と言えるようになりました。
よその犬が死んだってわたしには大した思い入れはないし、と思うものですが、それを聞いて涙してくれる人、理由を聞いてくれる人、理解を示してくれる人、みなとても優しい。
それに、やっとコスモを近くに感じられるようになりました。
あまり詳しく書くと「危ない感じの人」になってしまうので控えますが、実感として「ああ、本当に近くにいるんだなあ」と感じられるようになりました。
先日も、意を決して、末期がんの告知を受けた後、毎日のようにかよった公園へ行ってみることにしました。そこで、思い出をたどって泣いて帰ってこようと思っていました。
すると道すがら、犬を通じて知り合ったご近所の奥さんと2匹のワンちゃんに遭遇しました。
コスモの死を伝え、息子さんの話や学校の話を延々としているうちに、すっかり、泣きに行くような気分ではなくなってしまいました。
2匹のワンちゃんはダックスで、一生懸命わたしに前足をかけて「かまって攻撃」をし、本当に可愛かったです。犬って愛情そのものだ、とコスモをなくしてからより強く思うようになり、どのワンコを見かけても今までよりとても可愛く見えるようになりました。
と、同時に「いつか死んでしまうのだなあ」とも。
それでも、ダックスたちには「元気で長生きするんだよ!」と撫でました。
奥さんと別れた後、一応公園へ向かいました。
すると、ずいぶん前から工事をしていたので、入り口が変わってしまい、思い出の道は柵越しになってしまいました。
それでも、柵越しにしばらく、まっすぐな森の道を眺めていました。
目に焼き付いているシーンがあります。
わたしがはじめてその道に入るとき(がん告知の次の日あたりでした)、「ここでいいのかなあ」と迷ったのですが、主人と入ったことのあったコスモはスイッと入って行きました。
そしてまっすぐな道を「わーい」と言わんばかりに小走りで進んだ後、立ち止まってわたしを振り返り、「こっちだよ!」とこちらを見ていたシーンです。
そのことを柵越しに思い返して、家に帰ることにしました。
大泣きしてやるつもりだったのにな、コスモは奥さんとワンコを差し向けたのだな。
それでも、それなりに暮らしていますが、家庭内で引きずっているのはわたしだけです。
どうにかならないもんかなあ。
いちいち数えても何も変わらないからです。
コスモがいなくなってから、今も立ち直れません。
日中の話し相手がいないことに圧倒されました。
「こっちゃーん、洗濯干すよー」と呼ぶと、2階へやってきて息子の部屋を詮索し、ごみを咥えて小躍りしながら見せに来たり、「こっちゃん寝るよー」というとベッドのそばへ来てしばし頭を撫でられると踵を返し、床に寝ます。自宅内ではいつも話をしていました。
耳掃除も片方が終わると「はい、反対コロンして」というと大きな体でゴローと反対側の耳を見せてくれるようになっていました。でっかい「お手」も無表情でやってくれました。めんどくさいときは「遠隔お手」とかもやってくれました。
逃げ出したくて外に出ようとすると、すべてがコスモの思い出だらけで足がすくみました。
「ここでまずマーキングをしたなぁ」とか、そんなことが次から次へと押し寄せ、とてもじゃないけれど外出が苦しく、やっと突破したのは半月ぐらいした頃だったか、その道を駆け抜けてバスに乗り込んで外出した時でした。
思えば、ここに引っ越してきて犬は数ヶ月で我が家の一員となりました。
この地域のどこに何があるか、どの家にどんな花が咲いているか、公園はいくつあるか、抜け道のこと。すべてコスモに教わったようなものです。
そして、コスモのいない今、そこへ行く用事が全くありません。
行ってもたぶんいい歳の女が奇妙に泣いているのを目撃されるだけです。
しかし、最近になってやっと「うちの犬、死んだの」と言えるようになりました。
よその犬が死んだってわたしには大した思い入れはないし、と思うものですが、それを聞いて涙してくれる人、理由を聞いてくれる人、理解を示してくれる人、みなとても優しい。
それに、やっとコスモを近くに感じられるようになりました。
あまり詳しく書くと「危ない感じの人」になってしまうので控えますが、実感として「ああ、本当に近くにいるんだなあ」と感じられるようになりました。
先日も、意を決して、末期がんの告知を受けた後、毎日のようにかよった公園へ行ってみることにしました。そこで、思い出をたどって泣いて帰ってこようと思っていました。
すると道すがら、犬を通じて知り合ったご近所の奥さんと2匹のワンちゃんに遭遇しました。
コスモの死を伝え、息子さんの話や学校の話を延々としているうちに、すっかり、泣きに行くような気分ではなくなってしまいました。
2匹のワンちゃんはダックスで、一生懸命わたしに前足をかけて「かまって攻撃」をし、本当に可愛かったです。犬って愛情そのものだ、とコスモをなくしてからより強く思うようになり、どのワンコを見かけても今までよりとても可愛く見えるようになりました。
と、同時に「いつか死んでしまうのだなあ」とも。
それでも、ダックスたちには「元気で長生きするんだよ!」と撫でました。
奥さんと別れた後、一応公園へ向かいました。
すると、ずいぶん前から工事をしていたので、入り口が変わってしまい、思い出の道は柵越しになってしまいました。
それでも、柵越しにしばらく、まっすぐな森の道を眺めていました。
目に焼き付いているシーンがあります。
わたしがはじめてその道に入るとき(がん告知の次の日あたりでした)、「ここでいいのかなあ」と迷ったのですが、主人と入ったことのあったコスモはスイッと入って行きました。
そしてまっすぐな道を「わーい」と言わんばかりに小走りで進んだ後、立ち止まってわたしを振り返り、「こっちだよ!」とこちらを見ていたシーンです。
そのことを柵越しに思い返して、家に帰ることにしました。
大泣きしてやるつもりだったのにな、コスモは奥さんとワンコを差し向けたのだな。
それでも、それなりに暮らしていますが、家庭内で引きずっているのはわたしだけです。
どうにかならないもんかなあ。
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